【直心影流剣術の使い手】石井 勇次郎(いしい ゆうじろう)【新撰組隊士】
石井 勇次郎(いしい ゆうじろう) (弘化3年1月5日~明治36年6月17日) 元伊勢桑名藩士。 由次郎とも。 戊辰戦争時の変名を、原次郎。 諱を貞行。 箱館編成新撰組第三或いは第四分隊指図役下役。 家紋は、 丸三つ三つ葉南天。 ※恐らくこの家紋のことかと。 〈スポンサードリンク〉 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 桑名藩士、石井 文弥とイツの長男として江戸で生まれる。 安政元年6月20日家督を継ぐ。 身分は御馬廻役で、禄高二十九石三人扶持。 直心影流剣術(じきしんかげりゅうけんじゅつ)の使い手で、 智勇兼備の剛毅な人物だったらしい。 慶応4年3月8日、 藩公定敬が藩邸を出て越後柏崎に向かった事により、 町田老之丞を隊長とする80余人の同盟に参加し、 変名を名乗る。 15日になって、藩邸を出て、本所の大久保 主膳正邸に移り、 七連士官隊と称える。 4月6日、 また転じて小川町の歩兵隊屯所へ入り、 四連新士官隊と名乗る。 11日の江戸開城にあたり、 江戸を脱して国府台に至り、 旧幕脱走軍の中の秋月 登之助を長とし、 土方 歳三を参謀とする、一軍に所属。 19日の宇都宮攻城戦では、鉄砲戦の後、 先頭を切って突撃。 突如として現れた敵に刀を抜く間もなく、 銃を揮って相手の槍に立ち向かい、 しまいにやっつけるという大接戦を演じた。 しかしこの時、腰に銃弾を受けてしまう。 のち会津を経て柏崎に赴き、 兵制を大改革した桑名軍にあって致人隊に属し、 閏4月27日の鯨波村戦闘で臀部に、 8月5日の賀茂村戦闘では左股に銃創を負うという戦歴から、 その剛勇ぶりがうかがえる。 北越利非ず会津に逃れ、のち仙台に向かう。 ...