米渓 彦作(まいたにげんさく)
(生没年未詳)
戊辰戦争当時の名を、丹羽 騏三郎。
維新後は、新井 常保と改名。
大野 右仲の弟とも。
元肥前唐津藩士。出身は摂津。
唐津藩士米渓 新助常道の養子と思われる。
箱館脱走軍役員外客員で、
藩旧世子 小笠原 長行に従い身辺の世話をしていた。
慶応4年3月3日、長行が難を避けるため
江戸深川の藩邸を抜け出したときに
共を申し付けられる。
以後、情報収集を任せられたらしく、
慶応4年9月に仙台にたどり着くまでに
江戸、常総、庄内など各方面へ出張している。
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仙台で蝦夷行きを決意した長行と、
榎本艦隊開陽艦への同乗を許された唐津藩士は2名で、
そのうちの一人である。
新撰組には加入しなかったようで、
明治2年4月25日、長行が外国船に乗り込み、
蝦夷地を脱出したときにも同行したとされる。
その後、新政府に出仕したり、
明治14年1月10日、唐津中学校が開校すると
その校長に就任したりした。
伝記
『小笠原壱岐守長行』
を10数年にわたり編纂する。
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