本武 権平(もとたけ ごんべい)
(文政9年~?)
権兵衛とも。
維新後、乾 光洋と改名。
江戸の生まれ。
元備中松山藩士(江戸定府)
箱館編成新撰組会計方所属。
身分は御供頭御次出入で、
禄高50石。
戊辰戦争のさなか、
会津藩の配色が濃くなるに及び藩侯板倉勝全と共に、
米沢を通過し仙台へ逃れる。
明治元年9月中旬、
同地において新撰組に加入。
ただ他の松山藩士たちよりも、
所用のため少々遅れての加入であったようである。
入隊後、蝦夷地へ渡り、
会計方として俗務をこなす。
板倉勝静香の身辺の世話にも関係したようで、
開陽艦が江差沖に沈没した時などは、
同艦に預けておいた松山藩の勝静や家臣の刀剣類が入った
大小各一箱の引き上げなどを依頼される。
同2年5月15日、弁天台場で降伏。
津軽藩御預け後、東京送りとなって、
11月19日に芝山内最勝院で旧藩に引き渡される。
29日に国元へ護送されるが、謹慎生活がなおも続いた。
翌3年1月ようやく許されて自由の身となる。
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