葵御紋康継(あおいごもんやすつぐ)
土方歳三の遺刀とされている。
刀工 康継とは?
慶長年間の刀工康継は、
近江国坂田郡下阪村の出で、
名を
「下阪市左衛門」
と名乗っていた。
肥後大掾(ひごだいじょう)を受領し、
はじめ結城 秀康に抱えられていたが、
のちに、徳川家康から
「葵の御紋」と「康」の字を贈られ、
「康継」
と改銘した。
そのことから、
作られた刀は
「葵阪下」
「葵御紋康継」
などと呼ばるようになった。
越前と江戸を隔年交代勤務を命じられたと言われている。
銘は
「肥後大掾藤原越前康継」
「越前国住康継」
「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」
などがある。
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土方歳三が所持していた【葵御紋康継】
土方歳三は、この葵御紋康継を
所持していたが、
甲州勝沼の敗走後、
本所小梅村において、
日野にいる
佐藤彦五郎に贈った。
中子の表銘は葵御紋の下に
「以南蛮鉄於武州江戸越前康継」
とあり、
裏銘は
「安政六年六月十一日於伝馬町雁金土壇払山田在吉試之」
と
「同年十一月廿三(23)日於千住府と太々土壇払山田吉豊試之」
と2行にわたって書かれている。
このことにより、
この刃渡り二尺三寸五分のこの刀は、
葵御紋康継の作というだけでなく、
山田在吉
山田吉豊
2人の試し切りがなされたという付加価値が付き、
より一層この刀の価値を高めた要因になっている。
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山田在吉、山田吉豊とは?
山田在吉は、
称を徳蔵、初名を左吉(すけよし)といい、
「七代首斬り浅右衛門」こと山田浅右衛門吉利の次男で、
吉豊は在吉に兄になる。
吉田松陰や頼三樹三郎らの処刑者として知られる、
山田浅右衛門吉利の長男、吉豊は、
天保10年5月15日生まれで、
通称をはじめ「源蔵」と名乗り、
明治維新後は家督相続をして、
「八代浅右衛門」となる。
明治15年8月13日、
父の吉利よりも早くに無くなった。
墓は、
東京都豊島区池袋の
「祥雲寺」
に現存する。
戒名は
「性善院秀様吉豊居士」
と号する。
祥雲寺地図
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土方歳三はいつこの刀を受け取ったか?
日野の佐藤彦五郎に贈った
この「葵御紋康継」だが、
この刀をいつ手に入れたのか?
土方は本所小梅村から、
この刀を贈ったが、
刀を所持していた山田吉豊が住んでいる、
山田家の寮は本所小梅にあった。
近藤勇が流山で投降した後の、
慶応4年4月11日、
土方ら残りの新撰組は小梅から市川に向かっている。
このことは
島田魁や中島登の書から確認できるので、
土方は、山田吉豊から受け取ったばかりの刀を
佐藤彦五郎に贈ったと思われる。