内山彦次郎
(寛政9年~元治元年5月20日)
大阪西町奉行所与力。
名は之昌。
内山家は大坂天馬与力として歴代その任に就いていた。
二代 権右衛門之生 (享保7年7月19日没)
三代 荻右衛門之継 (享保11年2月10日没)
四代 林右衛門之孝 (宝暦8年10月30日没)
五代 藤三之明 (寛政9年11月28日没)
六代 藤三郎(初め逸平)之允 (弘化3年閏5月10日没)
七代 彦次郎之昌 (元治元年5月20日没)
八代 逸之助之応 (明治8年6月13日没)
と8代目まで続いた。
〈スポンサードリンク〉
大塩平八郎の乱を鎮めた男
(※画像は大塩平八郎)
七代彦次郎は、
天保8年の大塩平八郎の乱を鎮めた男として知られている。
久須美(佐渡守)祐明 (くすみすけあきら)の言に、
「内山彦次郎は昼夜の別なく用談を試み、
その性質は貞実堅固にして、
しかも才気あり、
大坂出生の者でありながら、
身元宜しき町人共と懇意に仕らず、
役所では御用向申談の外一切彼等を私邸に入れなかった」
と称賛している
また、
天保14年、嘉永6年、万延元年の御用金令にも大きな功績を残している。
彦次郎は新撰組に斬殺されたと言われているが、
土佐中島作太郎、
筑前結城一郎、
肥後津田小太郎
らの襲撃によるものとの話も残されている。
彦次郎の遺骸は、
大阪市北区兎我野、
(旧地名)西寺町の寒山寺に埋葬された。
現在、墓所は、
箕面市に移転した寒山寺
と
大阪市北区長柄中町の市立北霊園八田五郎左衛門の墓の隣
と2カ所に建立されている。
箕面市寒山寺
〈スポンサードリンク〉
大阪市北区長柄中町市立北霊園
北霊園の墓には、
『従初代兼之累代至七代之昌西寺町寒山寺ニ葬ル』
と刻まれている。
七代之昌が彦次郎の名である。
戒名は、
大機院之道元昌居士と号す。