伊東甲子太郎(いとうかしたろう)
(天保6年~慶応3年11月18日)
別名、鈴木大蔵、宇田兵衛、摂津とも。
常陸新治郡出身。
隊内では、参謀、文字師範を務める。
かしたろうではなく、きねたろうと読まれることもあるが、
「甲子」に「樫」の文字を用いられた例もあるので、
「きねたろう」は誤読とされる。
入隊前
志筑藩郷目付 鈴木 専右衛門忠明の長男で、
鈴木 三樹三郎の兄である。
神道無念流剣術と北辰一刀流剣術の使い手と知られる。
父の閉門蟄居により、幼年期は母方の里で、
三樹三郎と共に過ごした。
後に水戸で剣術と共に水戸学を学び、
そこで武田 耕雲斎らと出会い、
江戸に出て深川佐賀町の伊東 誠一郎道場に入門。
師が没した文久元年ごろに娘ウメの婿となり、
道場を継いで伊東を姓名乗るように。
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新撰組入隊
元治元年秋、
江戸東帰中の藤堂 平助と接触して新撰組入隊を決意し、
同年10月15日、
隊士募集を兼ねて東帰していた近藤 勇らと上洛する。
これを機に「甲子太郎」と改名した。
同時期の入隊者は、
弟の三樹三郎、
門弟の中西 登と内海次郎、
友人の篠原 泰之進らをはじめ、
別途応募者を含めた23人になる。
山南 敬助に送る弔歌
同年12月の編成では、
二番組長を務め、
翌年2月の山南 敬助の切腹に弔歌を四首読んでいる。
「春風に 吹きさそはれて 山桜 ちりてそ人に おしまるるかな」
「吹風に しほまんよりは 山桜 ちりてあとなき 花そいさまし」
「皇の まもりともなれ 黒髪の みたれたる世に 死ぬる身なれは」
「あめ風に よしさらすとも いとふへき 常に涙の 袖にしほれは」
その後、慶応元年の編成で、参謀となる。
近藤勇らとの亀裂
入隊理由は新撰組の勤王化にあったとされ、
慶応元年7月には、奈良に潜伏の浪士捕縛の任務に就き、
篠原らと向かったが、
11月及び翌年1月の長州訊問使に近藤らと随行した折には、
持論の尊王攘夷の立場で諸藩士と交わった。
同年9月には、篠原と共に近藤、土方と時局について激論を戦わせ、
慶応3年1月には隊内同志らと西国遊説に出て、
伊東は宇田兵衛の名で新井 忠雄らと九州に赴き、
時局論と共に新撰組からの分離活動を行った。
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御陵衛士の誕生
帰京後の3月13日、
薩摩などの内情を探る為として分離を了承され、
20日には藤堂 平助ら十数人と三条城安寺に引き移り、
翌日は五条善立寺に移転し、
6月に高台寺月真院に移るまでの屯所とした。
分離にあたっては、
孝明天皇の御陵衛士を拝命し、
山陵奉行の配下となる一方で、薩摩藩の庇護を受けた。
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七条油小路の変へ
※油小路の変についてはここをクリック
11月10日ごろ、
坂本 竜馬に身の危険を忠告したが聞き入れなかった、というエピソードがあるが、
その真偽は不明。
同月18日、
近藤の招待を受けて、
その妾宅に赴いた帰途、
七条油小路南で、新撰組の待ち伏せによって
斬殺される。
享年33歳。
伊東の遺体は、
御陵衛士同志の誘き出しに利用され、
収容にやってきた藤堂ら4人も新撰組によって殺害された。
彼らの遺体は三日後に光縁寺に埋葬されたが、
翌年3月13日に孝明天皇陵に近い
京都府京都市東山区泉桶寺山内町の戒光寺に改葬された。
墓碑には
「誠斎伊東甲子太郎武明」
と刻まれ、
没年例は32とされている。