(画像後列左から2番目が榎本対馬)
榎本対馬(えのもとつしま)
(天保4年1月2日~明治15年7月21日)
初名は、亨造、後に道明に。
長崎奉行、荒尾石見守の家臣、
高林忠太夫の子。
後に、榎本林右衛門の養子となる。
慶応2年8月、
幕府御目付となり、
坂本竜馬暗殺の命令者とも言われている。
明治元年正月、
鳥羽伏見の敗戦により徳川慶喜に従い、東帰とあるが、
負傷した近藤勇と「富士山丸」に同船したという記録もある。
8月、榎本艦隊に搭乗し、蝦夷地に渡り、
会計奉行に推された。
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明治2年5月、
五稜郭の開城に際し、
残務処理にあたり、箱館の称名寺に謹慎。
青森を経て弘前の景勝院に移り、薬王院を含め弘前降伏人580余人の責任者を命じられて謹慎。
同年10月、再度、箱館の弁天台場に移され、
翌年3月に放免となる。
明治4年9月、
開拓使七等出仕、
12月、開拓権判官に任じられ、
5年2月に箱館、札幌間新道建築掛長に命じられる。
9月に開拓小判官となるも、
翌6年1月に退職し、正院地誌課九等出仕、
陸軍省七等出仕などを歴任。
明治15年7月21日に病没。
享年50歳。
【坂本竜馬暗殺の命令を出した?】榎本対馬(えのもとつしま)(榎本道章)
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