油小路の変(あぶらのこうじのへん)
(慶応3年11月18日)
新撰組参謀職、伊東 甲子太郎は
尊皇攘夷を強く唱えており、
近藤 勇と次第に対立し、
同門意識や複雑な感情がからんで隊を二分するまでに至った。
また当初から伊東は新撰組壊滅、隊ぐるみの洗脳を
策していたとも伝わる。
近藤との確執により伊東は脱退を願ったが、
隊規上許されず、
御陵衛士拝命という強硬手段を策し、
同士を連れて離局し、
高台寺塔頭月真院に移った。
これよって
高台寺党と呼ばれるように。
その後、近藤の伊東に対する憎悪と報復は、
茨木 司殺害事件(切腹とも)を経て、
油小路の変に発展する。
〈スポンサードリンク〉
油小路の変
慶応3年11月18日、
兼ねてから伊東が借用を申し入れていた
金子の調達ができたので受け取りに来るように、
という近藤の招きに、
引き留める同士を振り切って単身近藤の元へ向かう。
醒ヶ井通りにある、近藤の妾宅で酒食の歓待を受け、
亥の刻(現在の午後10時の前後2時間頃を指す)過ぎまで飲み続け、
次の会見を約束し、解散した。
油小路木津屋橋付近に差し掛かった際、
大石 鍬次郎らに襲われ、
酩酊していた伊東は長槍に突き刺され深手を負い、
実相山本光寺(法華寺)に逃げ込んだがそこで命を落とした。
享年33歳。
伊東の亡骸は、
駕籠に乗せられたまま高台寺党への囮として、
油光寺七条の辻に捨て置かれた。
駆けつけた高台寺党7名と
潜伏していた新撰組との死闘が繰り広げられ、
翌朝、現場には手指や肉片、
血痕、毛髪が飛び散り酸鼻を極めたという。
高台寺党では
藤堂 平助、服部 武雄、毛内 有之助が討死。
鈴木 三樹三郎、加納 道之助、富山 弥兵衛、篠原 泰之進は
辛うじて血路を開き薩摩藩邸に逃げ込み庇護された。
討死した4人の遺体は数日間現場に放置された後、
満月山光縁寺に埋葬され、
翌年2月13日に泉湧寺内戒光寺に改葬された。
この時の様子を戒光寺院代は
「死骸ハ一向ニ不変唯匂ひ御座候迠ニ而只今
討死致候様ニ相見得候」
と話している。
この事件の1ヵ月後に、
近藤は高台寺党に襲撃され右肩に銃弾を受け負傷する。
大正7年、伊東の勤王事跡に対し、
従五位が贈位され、
昭和46年11月18日、本光寺前に殉難碑が建立された。