一本木の戦闘(いっぽんぎのせんとう)
一本木とは、函館市若松町、旧若松小学校付近の旧地名である。
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古来、この付近に一本の柏の大木があったことから、
この地名になったと言われている。
明治2年5月11日、
新政府軍総攻撃の日前夜、
箱館山の背後に陸軍部隊を上陸させ、
早暁から奇襲攻撃により箱館を突き、
弁天台場を孤立させた。
旧幕府軍の状況は、
五稜郭の裏手の神山四稜郭・権現台場を早朝に撤退し、
本拠五稜郭では千代々岱陣屋(ちよがだいじんや)を残すのみとなるため、
孤立した弁天台場を奪回すべく、
陸軍奉行並であった、土方 歳三は添役の安富 才助と
少数の手兵を指揮して、一本木関門に進軍し、
その途中、馬上で敵の銃弾を受けて、土方 歳三は戦死したとされる。
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しかし、
土方の戦死場所は一本木の他に、
鶴岡町、栄国(異国)橋なども挙がっており、
戦死した場所の特定は今現在も不明となっている。
新撰組嚮導訳の中島 登は
「一本木関門ヨリ打込進ンデ異国橋辺ニ至リ
馬上ニ指揮シ遂ニ銃丸ニ当リ落命被致」
と記している。
同頭取指図役の島田 魁は、
「砲台ヲ援ト欲シ一本木街柵ニ至リ戦フ
已ニ破リ異国橋近ク殆ド数歩ニ官軍
海岸ト砂山トヨリ狙撃ス数人斃ル、
然ルニ撓ム色無シ已ニ敵丸腰間ヲ貫キ遂ニ戦没」
と記している。
土方付属の立川 主税(たちかわちから)は日記に、
「一本木ヲ襲ニ敵丸腰間ヲ貫キ遂ニ戦死シタモウ、
土方氏常ニ下万民ヲ憐ミ先立テ進シ故ニ
士卒共々勇奮フテ進ム故ニ敗ヲトル事ナシ」
と記しており、
立川 主税によって、土方の郷里にもたらされた、
土方 歳三最期の状況メモには、
「五月十一日朝四ツ時/一本木鶴岡町/土方討死 小芝長之助使者/
一本杉(木)江来リ/土方引渡ス/安富才輔ハ馬ヲ率キ五稜郭江行」
と記され、
土方 歳三戦死の場所はまちまちとなっている。
小芝 長之助は探索掛として活躍し、
明治年間を生きているが、
この時のことを書き残したものは一切見つかっていない。
土方 歳三戦死の場所が諸説ある中、
現在は一本木が定説化し、
平成4年の暮れに、
「土方歳三最期之地」
が近くの交通分離帯のある通称、
グリーンベルト内から隣接する小公園に移され、
今でも新撰組ファンの観光地として親しまれている。
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