尾形俊太郎(おがたしゅんたろう)
(生没年未詳)
肥後熊本出身。
新選組隊士。
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文久3年6月ごろ入隊。
諸士取調役兼観察、文学師範、副長助勤、目付を歴任。
池田屋事件時は、屯所に残っており、
不参加。
元治元年9月には江戸に下り、
隊士の募集を行なう。
同年12月の編成時に五番隊組長を務める。
慶応元年11月の長州下りでは、
徒士(かち)として近藤勇に同行。
同3年6月の幕臣取り立てで見廻組格を受ける。
鳥羽伏見の戦いを経て江戸に帰還後、
甲州勝沼から会津まで転戦するが、
会津戦争中に離隊。
その後の行方は分かっておらず、
会津三代の正福寺、
松本喜次郎とともに
「尾形」
という隊士の墓もあったという伝承も伝わっている。
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離隊後は?
2013年、
霊山歴史館に尾形の子孫から俊太郎の手による漢詩書が寄贈され、
この書と共に発見された文書の解析によって、
尾形の生没年や来歴、その後が明らかとなった。
それによると、
尾形は会津でしばらく過ごしてから
故郷の熊本に戻り私塾を開き、
大正2年(1913年)に75歳で他界した。
会津で負ったと思われる目の怪我が元で、
晩年には視力をほとんど失っていたという。
新撰組隊士であったことを周囲に話すことはなく、
ただ文書の片隅に
「元壬生浪士」
とだけ記されていたという。