内海次郎(うつみじろう)
(天保6年~?)
二郎、正忠、忠利とも。
武蔵川越出身。
新撰組隊士。
北辰一刀流剣術の使い手。
同郷の中西登と深川佐賀町の伊藤道場師範代を務めていたが、
元治元年10月、江戸での新撰組隊士募集に道場主の、
伊東甲子太郎とともに応じ、上洛入隊する。
同年12月の隊の編成では、
八番組 谷三十郎隊に所属、
後に
十番組 原田左之助隊の所属になる。
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慶応2年6月、脱走した隊士、柴田彦三郎を捕えるため但馬に出張。
さらに同年9月の制札事件では組長の原田左之助らと奮戦し、
事件後、最高額の金20両の恩賞を得る。
翌3年3月、
伊東甲子太郎らと共に新撰組から分離し、
孝明天皇御陵衛士となり、
実質、新撰組を脱退した形になり、
御陵衛士として勤皇活動を始める。
同年11月の油小路の変当日は、
阿部十郎と御蔵ヶ沼で狩猟中で難を逃れた。
翌12月18日、
阿部十郎らと共に、近藤妾宅に沖田総司を襲撃しに行ったが、
不在で未遂に終わる。
引き続き同日、
墨染で近藤勇を襲撃し、
近藤勇に傷を負わせた。
戊辰戦争時には西軍として戦う。
明治2年11月、
京都戒光寺に伊東甲子太郎ら同志の墓碑を建立し、
「内海忠利」
と刻銘後、その後消息を絶った。