伊庭 八郎(いば はちろう)
(弘化元年? 一説には天保14年~明治2年5日)
幕臣。
名は秀頼。
心形刀流八代軍兵衛秀業の長男で、
九代秀俊の養子。
元治元年、将軍徳川家茂の上洛に随行する。
慶応2年、奥詰から遊撃隊に属し、
4年1月の伏見戦に従軍し、負傷。
同年閏4月、
遊撃隊士35名、請西藩主 林忠祟らと挙兵。
征東軍分断を図って、函領に拠り、
5月26日、
山崎の戦いで、
三枚橋で小田原藩士 高橋藤五郎(鏡心一刀流)に
左手首の皮一枚を残して斬られ負傷する。
このため自ら前腕の途中から先を切断し左手首を失う。
〈スポンサードリンク〉
療養のため、本体と別れ、
旧幕艦隊に投じたが、北航の際、
乗艦 三嘉保(美賀保丸)が遭難。
上総・江戸を経て横浜に潜伏した。
画像左端の船が三嘉保
11月28日、
盟友 本山小太郎とともに英船で箱館に至り、
翌月、松前の本隊と合流。
旧幕軍蝦夷地政権の歩兵頭並として、
組織上、新撰組、彰義隊、遊撃隊を統括した。
明治2年4月、松前口に官軍を防ぎ善戦するも、
20日の木古内戦で銃弾を胸に受け負傷、
箱館病院で治療を受けていたが、為す術無く、
本人の希望で、傷病者の搬送される湯の川でなく、
五稜郭に入ることを希望する。
その後、
五稜郭開城前夜に榎本武揚の差し出したモルヒネを飲み没したと、
新撰組 田村銀之助がその最期を語り残している。
墓所は、
東京都中野区沼袋2丁目の貞源寺にある。
〈スポンサードリンク〉