浅野 藤太郎(あさのとうたろう)
(?~慶応3年?)
備前出身、新撰組隊士。
薫・忠雄とも。
本業は医師だったと伝わる。
文久3年末頃の入隊。
副長助勤を務める。
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元治元年6月の池田屋事件では事前の探索を担当し、
近藤隊に属し、当日も出動。
事件後、金10両と別段金10両の恩賞金を得る。
また同月12日の柴 司の葬儀に参列し、
「志ばしまて おなじ浮世の人ならば
共に三つ瀬の 川や渡らん」
と弔歌を詠んだ。
このころ、諸士取扱兼観察に就任し禁門の変などにも出動した。
文に長け、近藤 勇の重用されるが、
池田屋事件以降、新撰組名簿にも浅野の名前は無い。
ただ新撰組隊士、阿部 十郎は元治元年秋に、
大坂で浅野と会ったと回想しており、
また、慶応2年9月の制札事件で斥候を務めたが、
失態を起こし、これが原因で除隊処分になったと
語っている。
阿部 十郎の遺談によると、
浅野は慶応3年に脱退後、伊東一派の屯所を頼ってきたため、
伊藤らは、浅野を一旦山梨に潜伏させ、
土佐へ逃走させるための書面を作成したという。
これは近藤新撰組と、伊東一派間との相互新規編入を禁じた約定を
伊東が順守するためにやむなくとった策だったが、
浅野は再度、新撰組屯所へ近藤を説得しに出向く。
この時、葛野郡川勝寺村で沖田 総司によって斬られた。
墓は東京都北区滝野川4丁目の寿徳寺境外墓地にある。
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