朝彦親王(あさひこしんのう)
(文政7年1月28日~明治24年10月29日)
皇族。
粟田宮、中川宮、賀陽宮、尹宮、久邇宮とも。
山城京都出身。
親幕派の孝明天皇の信任が厚く、
新撰組にも理解を示しており、
池田屋事件では松平 容保らとともに、
倒幕派の襲撃予定者とされていた。
〈スポンサードリンク〉
『朝彦親王日記』
が伝わり、
そこには慶応2年4月、
新撰組の奈良出張にサラシ30枚、
同年12月には、
用向きは不明ながら銀20枚を授けた記録があり、
翌年3月には近藤 勇の話として、
兵庫開港決定に落胆の様子が記されている。
幕府目付の原 市之進暗殺に際しては、
後任に近藤 勇の登用を会津藩に進言し、
また自身の侍臣として用いたい旨を
松平 容保に内談していた。
王政復古により参内を停止され、
翌年8月には徳川 慶喜と陰謀を企てたとの嫌疑で、
広島藩に預けられる。
復権後は神道の振興などに尽力した。
享年68歳。
墓所は京都府京都市東山区の
泉涌寺泉山陵墓地にある。