池田屋事件での服装(いけだやじけんでのふくそう)
事件当日の新選組隊士の服装を詳述した資料は伝わっておらず、
唯一、推測するできるものとしては、元彦根藩士の某が
明治35年1月13日に池田屋殉難志士の西川 耕蔵の一族、
太治郎の送った書状のみである。
それには事件翌日の元治元年6月6日、
混乱状態の残る祇園近辺から市中巡邏を行い、
真葛原(知恩院付近から八坂神社付近周辺の地域)の
茶店で休息をとった隊士たちの目撃記録が残されている。
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隊士たちは、割羽織に義経袴と称する小袴を着用し、
白木綿の後ろ鉢巻き姿で、抜身の槍を所持。
同書簡は、前夜池田屋に出動した際もこの姿だったと記録されている。
また八木 為三郎は、隊服のダンダラ羽織着たのは、
指揮官数名のみだったと回想した。
この記録には無いが、
事件当夜の死傷者が数名にすぎなかったことからも、
隊士たちはかなり頑丈な防具を着用していたものと思われ、
八木 為三郎は単衣の下に竹胴を着用して、
当日、屯所を出て行った隊士を目撃している。