覚王院義観(かくおいんぎかん)
(文政6年~明治2年2月26日)
金子劇蔵、堯運とも。
武州新座郡根岸村出身。
はじめ、東叡山の大慈院堯覚の弟子となり、
後に真如院義厳について修行を行なう。
そして26歳で真如院の住職となる。
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公現法親王(北白川宮能久親王)から覚王院の名を与えられて、
輪王寺宮の執当となる。
(画像は公現法親王)
慶応4年、
上野の山に集結した彰義隊を扇動し、
主戦論を主張したが、受け入れらず、
彰義隊壊滅後は、
逃れて6月2日に会津若松城に入る。
4月29日に、若松に来て療養していた土方歳三と、
6月15日に会見をしている。
6月18日、
覚王院義観は輪王寺宮と共に若松を出て、
7月2日に仙台の眺海山仙岳院に入る。
しかし同年慶応4年9月に捕らえられ、
東京に護送される。
罪状が確定しないうちに
「病死」
となっているが、
実は自ら断食し命を絶ったともいわれている。
享年47歳。
墓所は、東京都台東区上野公園にある、
真如院にある。