大石鍬次郎(おおいしくわじろう)
(天保9年~明治3年10月10日)
鍬二郎、桑二郎、鉄次郎、守親とも。
大石捨二郎の長男。
阿波出身。武蔵江戸とも。
新撰組隊士。
小野派一刀流剣術の使い手。
日野で大工職をしていたとも伝わる。
元治元年10月、江戸での隊士募集に応じ、上洛入隊する。
同年暮れの編成で、
一番組沖田総司隊に配属。
翌慶応元年春の新編成で、
諸士取調役兼監察になる。
翌同2年2月5日、
松原通洞院で武士某を斬ったと伝わる。
また同日、
実弟で一橋藩士の大石造酒造が惨殺され、
鍬次郎の縁故により新撰組菩提寺の光縁寺に埋葬された。
この際、造酒蔵を斬ったとされる隊士、
今井裕二郎に遺恨を持ったと伝わるが、確証はない。
その後、相続問題討議の為、一時東帰した。
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同年9月の制札事件では、
事件後に金1000疋の恩賞金を得る。
翌3年6月の幕臣取り立てでは、見廻組並の格を受ける。
さらにこの月の14日、
分離を宣言したが果たせず自刃した伊東派の佐野七五三之助の遺体を検視中、
蘇生した佐野七五三之助に一刀を浴びせられ、
額から首にかけて、および右の腹口とも太股と伝わる部分に負傷した。
その後、同年11月の油小路事件(油小路の変)にも参加。
※参照リンク 油小路の変
伊東甲子太郎暗殺後、
高台寺党と激闘し、負傷。
さらに翌月の天満屋事件に参加するなど、異称として伝わる
「人斬り鍬次郎」
の名をほしいままにした。
一方では、
新入隊士への隊士心得なども担当。
新撰組最後の生き残り隊士、池田七三郎は入隊時、大石鍬次郎から様々な注意を聞いたと伝えている。
※参照リンク 池田七三郎
慶応4年1月、
東帰後、甲州勝沼戦争では、
2月27日に隊から金10両の手当を受け、
先遣役として出陣するも敗走し、再度帰府後、
一時、五兵衛新田に姿を見せた後、脱走する。
横倉甚五郎は
「江府ニテ脱走」
と記録し、
島田魁も隊士名簿に
脱走印
を押した。
維新後、薩摩郡探索方を務めていた懇意の旧隊士、
三井丑之助を頼り、捕縛。
明治3年2月、
横倉甚五郎と共に刑部省へ送られ、
無関係の坂本竜馬暗殺事件について訊問を受ける傍ら、
伊東甲子太郎らの暗殺についても追及され、
小塚原で刑死(斬首)した。
述懐
浩然正気憶間存
生前遂無雪君冤
一片丹心答国恩
守親」
墓所は東京都北区滝野川7丁目の寿徳寺境外墓地にある。