秋月 登之助(あきづきのぼりのすけ)
(天保13年ごろ~?)
会津藩士。前名は江上 太郎。
父は江上 又八といい、会津田島の代官をしていた。
江上・秋月・原田氏は、その祖先が中国からの帰化人で、
同族であったため、まとめて秋月姓を称すように。
藩主、松平 容保に従って上洛していたので、
早くから新撰組と接触があったものと思われる。
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慶応4年3月、会津藩が江戸藩邸を引き上げる際、
登之助は江戸に残り、藩庁の了解の下
脱藩の形式を取って幕府軍に入隊し、
歩兵指図役並に任じられ、第七連隊付となる。
その後、伝習隊に転じ、
第一大隊の隊長となって、
大鳥 圭介の率いる幕府脱走軍と合流し、
宇都宮などで新政府軍と戦う。
この時、土方 歳三は登之助の下で、
参謀を務めている。
年齢的にも、実戦経験から見ても、
土方のほうが上であったはずだが、
土方は会津藩士である、登之助を立てていたと思われる。
会津戦争以後、登之助の詳細は明らかになっていないが、
墓所は
会津若松市の興徳寺にあり、「秋月登之助 明治18年1月6日 行年44才」
とある。
ただ明治19年7月、
加波山事件で投獄されいてた
下館の玉水 嘉一が、
小菅集治監で武士風の黒い獄衣を着た男から
声をかけられ、
その際その男が、
「拙者は秋月だ」
と名乗り、どうやら登之助だったらしいという
話が残っている。
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