沖田 総司(おきたそうじ)
(?~慶応4年5月30日)
幼名は宗次郎
字は藤原 房良(ふじわら かねよし)、
日野八坂神社の献額には沖田惣次郎藤原春政
墓石には沖田宗治郎と刻んである。
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生い立ち
生年月日は不詳であるが、
天保15年説、13年説がある。
家系は奥州白河阿部氏に仕えた武家で、
↓
三四郎
↓
勝次郎
↓
総司
となっている。
(沖田家菩提寺専称寺過去帳より)
沖田総司は勝次郎の長子で、
江戸麻布の阿部藩下屋敷で生まれたと伝えられている。
沖田家の石高は阿部藩分限帳によると、
二十二俵二人扶持と記されている。
総司は、父母と早くに死に別れたようで、
11歳年上の姉、沖田 ミツに育てられるが、
9歳の時から近藤勇の試衛館道場に入門し、
剣の修行に励んでいた。
ここで、沖田総司の天賦の才が見事開花し、
19歳で天然理心流免許皆伝となり、
塾頭として門人の指導にあたった。
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新選組として
文久3年春、
20歳の時、近藤勇らと共に京に上がり、
新選組隊士として、池田屋事件その他で活躍する。
当時の職名は、
副長助勤、新選組剣術師範頭である。
のちに幕臣として、
旗本の見廻組格という身分が与えられた。
不幸にも肺結核に罹患し、
幕府瓦解後、江戸に引き上げるも、
病状が悪化し、
浅草今戸の松本良順宅(一説には、千駄ヶ谷池尻橋の植木屋、平五郎方)で、
25歳の若さで病没した。
病臥中の沖田総司は、
「『もう病気は治った。もう一度剣を執って敵を斃すぞ』
と死に臨み絶えず口にす」
という記述が、
小島鹿之助の
「両雄逸事」
に記載されている。
墓所は、
東京都港区元麻布3丁目1−37
の浄土宗専称寺にある。
戒名は、
賢光院仁誉明道居士
辞世の句は、
「動かねば 闇にへだつや 花と水」
とも伝わる。