町奉行 有馬出雲守 則篤(ありまいずものかみのりあつ)
(文政9年~明治30年10月3日)
大坂東町奉行。
文久3年5月6日、書院番頭から大坂東町奉行になる。
翌月の6月3日、
蜆橋で壬生浪士と大坂角力が喧嘩し、
翌朝、角力 熊川熊次郎が死んだ。
この一件の報告書を
「壬生村詰浪士総代芹沢鴨、近藤勇」
の連名で、大坂東町奉行へ提出。
この時の東町奉行が有馬とされている。
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ただし有馬がこの時すでに着任していて、
この事件に携わったかどうかの確証は無い。
大坂の場合は江戸と違って、
東西両奉行において、与力の交流辞令が出されていることから、
この事件を、西町奉行与力が取り扱った可能性もある。
有馬は元治元年5月14日に、
勘定奉行に転じ、
同年11月22日、江戸南町奉行、
一ヵ月後に大目付、
慶応2年8月5日には、南町奉行に再任した。
墓所は、
東京都港区南麻布の曹渓寺にあり、
戒名は
「法林院殿仁翁三敬大居士]
と号す。
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