安藤 早太郎(あんどうはやたろう)
(?~元治元年7月22日)
新撰組隊士。副長助勤。
別名、藤原 貴果とも。
三河拳母出身。
紀州日置流竹林派射術(きしゅうへきりゅうちくりんはしゃじゅつ)。
天保13年に行われた奈良東大寺での通し矢で、
名を上げたが脱藩。
知恩院の一心院に入り。
文久3年5月ごろ新選組に入隊。
同年5月25日付で新撰組が幕府に提出した上書に連名。
〈スポンサードリンク〉
池田屋事件に参戦するも、重傷を負い死亡。
報奨金10両が贈られた。
享年45~46歳とされる。
文久3年12月、野口 健司の切腹では介錯を務めたという話があるものの、
その当時の年齢が25~6歳とされており、
この当時、安藤はまだ拳母藩士であり、
脱藩は嘉永3年なのでこの話はフィクションの可能性が高い。
郷里の三河では京都の聞名寺に埋葬とされているが。
同寺の記録には載っておらず、
現在、墓所は
京都府京都市中京区椰ノ宮町の壬生寺にある。