伊東甲子太郎らの分離
本格的な勤皇活動に邁進するため、
新撰組からの脱隊を企む伊東甲子太郎は、
今後も京に留まる必要から、
分離という形での脱隊を計画する。
その為に、慶応3年1月、
伊東は新井 忠雄を従えて九州大宰府に出張し、
勤皇派五卿や護衛の志士らと会見。
分離に対する理解と協力を要請した。
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前年の12月に崩御した孝明天皇の御陵衛士となるという
分離のための策は、この九州行きによって成った物と考えられる。
御陵衛士の拝命
3月12日に帰京した伊藤らは、
翌13日に壬生で近藤勇・土方歳三と会談し、
すでに自分たちが御陵衛士を拝命したことを告げる。
先帝の墓守を務めながら外部から新撰組を応援するという、
伊東らの主張を近藤・土方は認めざるを得なかったのだろう。
この日、伊東らの分離は承認され、
二十日になって伊東一派13人は隊を去った。
高台寺党の誕生である。