大高又次郎(おおたかまたじろう)
(文政4年12月~元治元年6月)
幼名勘助、のち重秋。
播州林田藩士、大高六八郎義郷の次男として生まれる。
武芸、西洋砲術を習い、かつ革具足製作に精通していた。
(大高又次郎の革具足は「大高製の皮具足」として有名だった)
姫路で甲冑製造に従事していたが、
勤皇に志し、
安政5年に脱藩して京に入り、
梅田雲浜(うめだうんぴん)に師事した。
(画像は梅田雲浜)
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雲浜亡き後、
長州藩邸内に住み、
吉田稔麿(よしだとしまろ)、
吉岡庄助、
宮部鼎蔵(みやべていぞう)
らと交わり、
専ら同志達の武具を製作していた。
(画像は宮部鼎蔵)
のち、
桝喜を称した古高俊太郎の店の別棟に移り、
国元から家族を呼び寄せ、
同志の武具、兵器の調達にあたっていた。
(画像は古高俊太郎)
元治元年6月5日朝、
古高俊太郎は突如府に込んできた新選組に捕らえられていった。
宮部鼎蔵と共に三条木屋町の丹虎にいた大高又次郎は難を逃れたが、
その夜、
池田屋に集まって、
古高俊太郎奪還などの策を相談していた同志30余名と共に、
大高又次郎は新選組に襲われて斬死した。
享年44歳。
墓所は、
三縁寺(京都市左京区岩倉花園町)
と
東山霊山墓地(招魂碑)
にある。