明保野亭事件(あけぼのていじけん)
元治元年6月10日未明、
東山清水産寧坂の料亭明保野に、
不審の浪士が集合しているとの
情報を入手した新撰組は、
武田 観柳斎、浅野 藤太郎を指揮者として、
隊士15名と当時応援のために隊に出向していた、
会津藩の青年5名を明保野へ向かわせた。
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捜査の結果、浪士集合の事実は確認できなかったが、
居合わせた一人の武士が逃走しようとしたので、
柴 司(会津藩士 柴 幾馬の弟)が、
これを制止しようとして槍で相手に傷を負わせた。
この武士は、土佐藩士 麻田 時太郎という男で、
単に明保野で飲食中であったことがわかり、
会津藩では土佐藩との関係に悪影響が生じるのを恐れ、
見舞いの使者を派遣したが、
土佐藩は麻田の挙動も不適切だったと「士道不覚悟」として、
彼を自刃させたので、
両藩の関係に微妙なかげりが生じるに至った。
だがこの事態を憂慮した柴 司が、
自ら6月12日に兄の介錯の下、自刃して、
土佐藩に陳謝の意を表したため、
この事件は、円満に解決したと言われている。
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