宇都宮城の戦い(うつのみやじょうのたたかい)
宇都宮藩は、
7万7千石ほどの小藩で、
戊辰戦争が起きると藩の意見は、
恭順派と抗戦派との両派に別れ、
連日激論を交わしていた。
ところが、慶応4年3月下旬、
会津砲兵隊が宇都宮城下近くに迫り、ひそかに
「城を借り受けたい」
と申し込んできたため、
藩はどちらに付くか結論を迫られることになった。
勤皇恭順派の
老臣 県勇紀が藩の実権を取り、
藩論を強引に恭順に統一し、
板橋にあった総督府に対して3月30日、応援の嘆願書を差し出した。
その嘆願書の内容は
旧藩士、桑名、水戸藩の脱走者が板倉を頭首とし、
会津藩を背後において宇都宮を占領して、
北関東の支配を狙っているので至急に総督府の出兵を願う」
という内容であった。
これに対して総督府は香川敬三(水戸脱藩後、岩倉具視の家臣に)の指揮する
宇都宮救援隊を派遣した。
(画像は香川敬三)
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4月7日、
宇都宮に到着した救援隊は、
まず日光に進み会津砲兵隊を破り、
小山方面に出撃して東軍大鳥軍本隊と激戦となったが、
ここで敗走し宇都宮城へ戻った。
そこへ、
下妻、下館両城を開城させてきた土方歳三率いる新撰組などによって編成された
大鳥軍右縦隊
(司令 江上太郎※秋月登之助・会津藩士、参謀 土方歳三・新撰組)
が奇襲し、わずか5~6時間ほどで宇都宮城を落城させてしまった。
この知らせを聞いた大鳥軍の本隊は、日光進軍を中止し、
翌20日には宇都宮城に入り合流した。
22日には、
この勢いに乗って宇都宮西南13キロほどの所にある、
壬生城の攻撃に向かったが、
第二次宇都宮救援隊と安塚で戦闘となり、多くの死傷者を出し宇都宮へ敗走することになった。
さらに翌日、
伊地知正治の指揮する、
第三次、第四次救援隊が宇都宮へ到着し、大激戦となり、
大鳥軍は銃弾を使い果たしたうえ、
大鳥圭介、土方歳三、江上太郎ら幹部が負傷したため、
宇都宮城を受け渡し、その日のうちに日光へ退却した。
(画像は伊地知正治)
(画像は大鳥圭介)